主体的に学ぶための教育法

大学の講義の現状

講義を受ける側の人数が多いと自分がこの講義を受講する場を構成しているという意識は薄れる。
私が大学で受けている講義は10~20人程度のものから100人以上の受講者がいるものまである。

100人以上の講義をずっと話を聴くような受動的な講義だと、多くの人がパソコンで講義とは関係ないこと、いわゆる内職に軽く取り組む。
たしかにじっと話を聴いていると眠くなるため、そのような講義は内職をしながら聞こえてくる程度がちょうどよいのかもしれない。

私自身、興味があまりない授業を聴くのは苦手だ。
必修だから受けるが、本音は自分の興味のあることだけ講義を受けたいと思ってしまう。

大学生のブログの活用方法

自分の考えを発信するため、副業として、SEO対策を学ぶためなど大学生がブログを書くことをおすすめする記事は多く見る。

私は今日講義を受ける前にふと、大学の講義をブログに書けるように受けてみようと思いついた。
まだブログは始めたばかりなので、今は書くことが楽しい。
だから、楽しみのための題材にしようと思った。

実際今日は二種類の、教育に関する講義を、ブログのために自分の考えを持ちながら受けてみた。
残念ながら、ひとつの講義はどうしても興味が湧かずずっと真剣に話を聴くということはできなかったが、もうひとつは興味深く取り組めた。
しかし、コメントシートに今日の講義から学んだことより、今日の講義に対する自分の考えばかり書いたため、教授にとって無駄に奇をてらいたい嫌な学生にはなっただろう。

 

主体的に学ぶためには

ようやくこの記事のタイトルに行こうと思う。
これこそ今日の講義から考えたことである。

子どもに主体的に学ばせるため、必要性を感じさせることが大切だと、様々な教育法の講義で学ぶ。

しかし、私は必要性から学ぶことに”仕方なさ”と”やらされ感”が伴ってしまうように感じる。
これが必要なのか!じゃあ勉強したい!
より
これが必要なのか。じゃあやらなくてはならないな。
の方が自分にとってはしっくりくる言い回しなのだ。

実際前の話と重ねると、大学の講義の現状からは「必修だからこの講義はとらなければならないのか。じゃあやらなくてはいけないな。」という考えを持つ学生が多いのだろう。

必要性から主体的な学習につながるのは大人から見た”学ぶこと”に対する思考である気がする。
大人になってから学生のとき学んだあのことは必要だったのだなと実感し、自ら学習したいと思うことはあると思う。
これは必要性に駆られ、学ぶことに魅力を感じ、主体性につながる。

子どもはどうだろうか。
いくら必要性を述べても、必要性を感じさせても、それは限定的事象になってしまうことが多い。
料理をするときに~とか日常のこんな場面という例を出すからだ。
そして大きくなるにつれ、その必要性は試験にベクトルが向く。
だから試験のための勉強は意味があるのかみたいな議題が生まれる。

私は主体的な学びを引き出すなら、必要性より楽しさであると考える。
計算の競争をすることが楽しい、漢字を書けるようになることが楽しい、英語を喋れるのがかっこいい。

「これから小学生になるんだから勉強頑張りなさい。」
みたいな言葉をよく聞くが、なぜ勉強をあまりしたことがない、授業も受けたことがない子どもに”勉強は頑張るもの”という意識を染みつけるようなことをいうのだろうか。
おそらく、その言葉を言った大人は勉強が苦痛であることが多く、頑張らなければいけないという意識があったのだろう。


「これから小学生になるんだから勉強たくさんできるね。楽しんでね。」
と言うことが子どもの勉強への入り方を少し変えるのではないか。